暗室が自由に使えないようになってから、結構経った。その間、ネガもたくさん通したし、デジタルで撮ることも多くあった。で、このごろ感じているのは、小さくてもいいから、紙に出力することの大切さである。デジタルならばお店プリントという手もあるが、細かい調整は自分で行いたい。しかし、プリントまで完結できるようなシステムを自宅に構築しようと考えると、フィルム暗室、デジタル暗室のどちらにしろ、多額の投資が必要である。
これまでたくさん使ってきたフィルムをこれからも使い続けるのであればフィルム暗室、時代の流れに乗るのであればデジタル暗室であるが、自分の作品づくりの方法として、どちらがよいのか。この一年、考え方に大きく波があったように思う。ヒコーキ写真は、ほとんどデジタルで撮っているが、
その機材を拡張したいなー、という記事は以前に書いた。しかしその一方、最近のデジタル写真の色に不満を感じ、
カラーネガを突発的に通してみたり、今更ながら、
中判フィルム用のシステムを拡張してみたり、ということもあった。
しかし、現時点では、デジタル暗室にすすむべきなのかなという気になっている。デジタルとアナログと言うが、確かに大別はできるが、連続的なものである。A/D、D/Aを究極まで進化させることができれば、垣根はないはずである。はじめてインクジェットプリンタを買ったのは15年ほど前のことであるが、その頃の印刷品質なんて、印画紙に焼付けられた写真とは比べ物にならなかった。しかし近年では、写真に匹敵する高画質なプリンタが、ホーム用のA4サイズであれば数万円で手に入る。きれいに画像処理され、きれいな印画用紙にプリントされたものであれば、違和感なく鑑賞することができる。デジタルとアナログの垣根が取れてきており、そろそろ移行しても良い時期なのかなと感じる。
フィルム暗室も、今後の行く末は暗く見えるが、まだまだ現役なのではないだろうか。お金を出せば、引伸機をはじめ、種々の暗室用品は手に入る。また、印画紙などもコアな人のために細々と生き残る気がするので、銘柄にこだわらなければ、しばらくは大丈夫であろう。このような状況を鑑みると、これまでの暗室については、ベースの知識はあるので環境を構築することはやろうと思えばいつでもできる。その一方、デジタルで正しい色作りはやったことがなく、挑戦してみたいものである。また、フィルムというやがて廃れ行く運命にあるものに、今から新しく投資するというのにも抵抗がある。
カメラ本体にしてもそうであるが、デジタルで創る写真という分野が、まだ成熟期に至っていない感は否めない。そんな移り変わりの速いものに、大枚はたいて環境を整えるというのはどうかな、という気はある。つまり、成熟した頃合を見計らって、機材を買い揃えればということである。しかし、それを待つ必要はないであろう。いつぞや、このデジタル化の波に飲まれることは間違いない。そのように考えると、デジタルでの処理方法を覚えて損はない、実際に手を汚してこそ、その感覚がつかめるのであろうから。もっと進化した次のモデルに買い換えるまでに、勉強できることはたくさんあるはずである。
これまでフィルムでの作品作りにこだわってきたのは、フィルムに焼き付けるという感覚や、マニュアルカメラという機材への、単なる愛着なのではないか? デジタルに移行するといっても、愛着を含めた一切を捨て去ることではない。モノクロネガという、自由度が狭く、ごまかしが効かない世界の中で、多くのことを学ぶことができた。これまで習得してきた技術は、カラーで撮る上でも、デジタルでも、基礎になることは変わりないと思う。
機材がデジタル化し、一般の人たちも、容易にデジタル一眼などを手にできる時代になった。そして鮮やかな色の世界を手軽に表現できるようになり、そのような作品を見ることが増えた。しかし、世の中のすべてが鮮やかなものか? 写真において、鮮やかさを競う、という風潮は頂けない。鮮やかなものは確かに、それはそれで綺麗だが、微妙な色合いの美しさを感じる心はどこへ行った?
フィルムとデジタルとで、作られた写真の感じ方が異なるように思っていたが、作品の作り方なのではないかと最近思う。フィルムの場合には制約が多く、ネガ、リバーサルで大きく異なり、感材を使い分ける必要性がある。その一方、デジタルは自由度は広く、鮮やかにすることも、渋めにまとめることもできるはずである。そういう意味では、使いこなしの問題なのかもしれない。
自由度の高いはずのデジタル暗室で、どこまで"自分の"作品を創れるか、チャレンジしてみたい。
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- 2012/12/03(月) 02:58|
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